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ほそ川 (東京 両国)

香り高く喉越しのいい十割そばを身上とする 「江戸蕎麦 ほそ川」

溌剌とした味わいのせいろはもとより、季節の種物や天ぷらにも主人、細川貴志さんのセンスが光る。 両国に店を移して8年。素材へのこだわりから弟子のこと、さらに次なる展開まで、秘めたる思いをお話しいただいた。

ほそ川

江戸蕎麦 ほそ川 (クリックで拡大)

1.「もっともっと」と前進し続けた時代

目標をくれた「翁」との出会い

店内の様子

店内の様子

そば屋を開いたのは昭和60(1985)年だから、もう26年以上経つね。 その頃は吉川(埼玉県)にあって、うどんや丼物もあったし、出前もしていた。 でも、そばだけは、絶対に出前はしなかったね。それまでは日本料理の板前をしたり、寿司屋で働いたり。 どこも長続きしなかったんだけど、そば屋を始めたら「もっと前に進みたい」——「もっともっと」という気持ちが湧いてきたの。不思議だね、これは。 休みになると、よそのそば屋をよく食べ歩いてね。その中で、当時、東京・東長崎にあった「翁」さん(高橋邦弘さん・現「達磨」主人)に出会って勉強させてもらったの。

翁さんはそば打ちが上手いし、原料の追求の仕方もすごい。追いつきたい一心でそばを打っていたよね。 「待ってろよ」って思っていたし、自分を信じて前に進めば大丈夫って感じていたんだよね。 今は目指すところが違っているけれど、そばを打っているとふと姿が浮かんで、頑張ろうって思うんだよね。 そんな出会いがあって、まず出前をやめたんだよね。 営業的には3年間ぐらい大赤字。 でも、あの時、自分のやりたいそばを諦めなくて良かったと思うよね。

丸抜きからの製粉は開店の翌年には始めていた。 その後、皮むき機を揃えて、玄そばを農家から入れるようになって。  丸抜きした後に、赤く焼けた実を一粒一粒、珈琲屋みたいに取り除くのもコツコツとやったね。 今はカラーセンサーではじいていて、ラクができる分、機械の値段は高かった(笑)。

当時は、ふるい機も持ってなかったから、カンカンカンって箱にぶつけてふるっていたのを思い出す。 全身、そば粉で真っ白になって。製粉は手間も時間もかかるけど、ほかと同じそばを出すのは嫌だったから、ちっとも大変なことだと思ってなかったんだよ。  自家製粉の手打ちそば屋の中には、ずっと丸抜きを電動の石臼で挽くだけっていう店もあるじゃない? そういう人の気が知れないんだよ。 本気でやっていると、「もっともっと」って思うはずなんだよね。これでいいやと満足しちゃうのは、怠けているとしか思えない。 殻むき機を置く場所がないとかさ、口先で理由ばっかり言って。 場所なんてどうにか工面できると思うんだけどね。

店内の様子

店内の様子

江戸・両国への進出

吉川の店では18年ぐらいやってたね。 あそこは東京から来てもらうのに大変だし、駅からも遠い。 お客さんを呼ぶのが本当に大変だったの。 そば屋に限らず、飲食店っていうのは、お客さんが入って食材が回転してかないと、いい仕事はできない。 だから、来てくれたお客さん一人一人、真剣勝負だった。 また来たいと思ってもらえるようにしなきゃダメだって、必死の思いでやってたよ。

そんなこともあって、もう少しお客さんが来やすいような場所に移りたいとずっと思っていてね。築地の河岸にも通いたかった。 その二つが東京に出てきた大きな理由だね。 最初は銀座で探していて、いい物件が二件あった。 でも、値段が高くてね。人形町も見たけど、今ひとつ、ピンと来なかった。 そんな時に、両国のこの店を見つけたの。 駅に近いし、電車に乗れば10分ちょっとで築地にも行ける。 何より、建物が大きくていいなと思ったんだよね。

店舗の設計は吉川時代からお世話になっている高橋(修一)さんにお願いして。雰囲気はすごくいいんだけど、唯一、不満なのは客席が見えないこと。 吉川の頃は厨房から覗けば客席が見渡せたから、お客さんの食べてるペースをつかんで、料理を出していくことができた。忙しい時には、耳で聞いて判断したりね。 そばをすする時に、「ズボッ」っ音がするお客さんはだいたい食べるのも早い。 その音で予測して次の準備をすることができたんだ。

あと、俺はお客さんの食べている顔も見たいんだよね。帰り際に「うまかった」って言ってもらえるのは嬉しいけれど、その言葉は九分九厘、信用しない。 社交辞令が入っているからね。 食べている時の顔って正直なんだ。 旨いのか旨くないのか、すぐにわかる。そうやってお客さんの反応も見ながら、ずっとこの商売をやってきているんだよね。

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