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車家 (東京都八王子市)

築150年の堂々たる田舎家

街道沿いに立つ、築150年の堂々たる田舎家。 ここ 「車家」 は世代を超えて愛されるそば屋だ。 開店から40年。 主人、小川修さんがこの店に込めた思いや経営者としての努力を伺った。

車家

どっしりとした店構えの 「車家」 (クリックで拡大)

1.商人としてのそば屋

商売を学ぶため百貨店に就職

お店の入り口

お店の入口

私は中学卒業する時から、「商人になろう」と決めていたんです。 そのため商業高校を出て、昭和34年 (1961年)、三越に就職しました。 給料をいただきながら商売を勉強できるところと考えたとき、やはり百貨店がいいだろうと。 まして、三越は300年以上続く伝統のある企業です。 伝統というのは、頑なに守るのでなく、小刻みの変化を続けていくことで生まれるもの。 その時代の政治、経済、社会環境などを見て適応させていくというのは、まさに商売の基本です。

商いというのは難しいものでしてね、どんなに繁盛していても潰れることがあります。 経理や商品管理といった裏方がしっかりしてないといけないですし、利益が出たらそれをどう使うかによって、益にも害にもなるわけです。 先の予測も大切です。 たとえ景気がいい時でも、その先がどうなるかを常に考えていなくてはいけない。 逆に、今のような不景気の時代に残れれば、景気が上向いたときには日が当たるわけですね。 そのためには、キャッシュフローを蓄えておかなくてはいけない。 三越にいた10年間で、商売の哲学を学ばせてもらいました。

店内の様子

店内の様子

「車家」という屋号が示すもの

孔子の言葉に「30にして立つ」とありますが、30歳になったら自分で商売を始めようと、入社当時から思っていました。 ただし、仕入れたものをそのまま売るような店は考えていなかった。 というのも、三越にいた頃、スーパーが誕生しましてね。 百貨店のように、立派な建物があって教育された店員が対応するわけではないけれど、その分、価格は安い。 あぁ、これは流通が大きく変えられたんだな、と気づいたんです。 事実、ダイエーが小売業で日本一になった時には、流通が経済を支配する時代になっていました。 個人商店を開いても、きっと立ち行かなくなると感じたんですね。

だったら、自分たち夫婦がなにかを表現できる商売をしよう。 その表現したものに共鳴していただければ、どんな時代になってもきっと残っていけるだろう。 そう考えを巡らせて、思いついたのが食べ物屋でした。同じ食材を渡されても、そこから生まれる味は十人十色。 店の設えや器などでも、自分たちならではの表現ができます。せっかく食べ物でやるなら好きな蕎麦にしよう。 そう思ったら、もう一本道でしたね。

こうして昭和47年 (1972年)、「車家」を開きました。 昔、そばなどの粉を挽くのに水車を使っていましたが、それを 「車」 と呼んでいたんですね。 「屋」ではいかにもそば屋さんになってしまいますし、将来、子どもの代には料理屋など別の商いに変わるかもしれない。 ですから、「家」の文字を使うことにしました。 もう一つの意味は「継続」です。 水車はくるくると回っていくものですよね。 商いも停まらず、続けていくことが大切。 そんな思いも込めているのです。

夫婦で目指した「接待に使える店」

開店当時、そばは機械打ちで、出前もしていました。子どもたちが生まれていたので、家族4人が食べていくだけの稼ぎが必要だったのです。 そばの修業は、開店前に近くの店で3ヶ月間しただけ。技術的には付け焼き刃で、食材を見る目もありません。 ですから、もりそば一枚が120円だった時代に100円に落として、量はよその2割増にしたところ、店を開けると人がダッと流れ込むほど繁盛しました。 ちょうど多摩ニュータウンの開発が行なわれていたので、工事関係の人もよく利用してくれましたね。 もっとも、私と家内が考えていたのは、値段と量が売りのそば屋ではありません。訪ねていらしたご両親、あるいはお世話になった方を接待できる店を目標にしていました。

たとえば、遠足に行く時って、何日も前からわくわくして、当日、楽しんで帰ってきたら、その後も余韻が残りますよね。私たちが売っていきたいのも、そうした「時間」です。ここにいらっしゃるまで、食事をしている間、そして帰ってから。その時間を豊かにするお手伝いをしていきたいと、いつも思っているのです。

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