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村屋東亭 (茨城県鉾田市)

2.手打ち蕎麦と自家製粉への道のり

師と手打ち蕎麦の虜に

通い始めて10年ほど経った頃、東京・上野の「東天紅」で蕎麦教室を開くことになり、私は運転手を頼まれました。 教室がある日は、アパートに寝泊まりして、先生を迎えに行く。 そのうち、先生から直々に蕎麦打ちの技術を教えてもらえることになり、今度は大学の下宿屋に部屋を借りて、2ヶ月間、指導を受けました。  女房の親にしてみたら、「忙しいのに店の仕事も手伝わずに、一体、何をしているのか」 と思ったでしょうね。 私が手打ち蕎麦に傾倒する意味も、おそらく理解できなかったと思います。

実は、先生のところに通っていること自体、初めのうちは話していなかったんです。 ところが、ある時、スピード違反で捕まって、警察に渡した免許証を受け取らずに、そのまま先生のところに向かってしまったことがあってね。 警察から自宅に連絡が入って、先生のところに行っていることがバレちゃったんです。  でも、通うのをやめようという気持ちはまったくなかったですね。 2ヶ月間、泊まりで手打ちを教えてもらった時も、女房の家から追い出されても構わないと思っていた。 先生にも手打ち蕎麦にも惚れ込んでしまい、女の人を好きになるのと同じで、周りが見えなくなっていたんですよ。

もりそば

もりそば 840円

老舗蕎麦屋を新たな形で継承

手打ちの技術を学んでほどなく、水戸に蕎麦屋を開きました。 店の名は「蕎麦 維新」。 もちろん、蕎麦はすべて手打ちです。  そこを5年ほど営業したところで、義父が店を閉めることになった。 大正時代から続いた店を絶えさせてしまうのはもったいない、と思って、昭和58(1983)年に鉾田に戻り、後を継ぐことにしたんです。  とはいえ、機械打ちをするつもりはなく、蕎麦は手打ちに切り替えました。 さらに、自家製粉を始めるため、もとの店から車で10分ほどの今の場所に移転して 「村屋東亭」 の看板を掲げたんです。

自家製粉を始めるきっかけを与えてくれたのは、広島「達磨」の主人、高橋(邦弘)さん。 高橋さんは蕎麦教室を受講していて、その時に知り合いました。 当時、彼の店は東京・南長崎にあり、すでに自家製粉を始めていたんですね。  ある時、高橋さんが挽いた粉を送ってくれたので、試しに打ってびっくりした。 木鉢の時の感触から違い、弾力があって色もきれいで味もいい。 早速、機械を買って、店の横に製粉室を建てたんです。

店主と女将

店主と女将

茨城生まれ“常陸秋そば”の魅力とは?

蕎麦は打ち方も大切ですが、さらなるおいしさを求めるなら、いかにいい原料を使うか、ということに行き着く。私の店で使うのは、ほとんどが地元、茨城の“常陸秋そば”です。  最近、在来種の蕎麦が人気ですが、常陸秋そばは金砂郷在来種を選抜育成した品種です。この選抜育成とは、目標に沿った形質のものを選んで育てるという工程を繰り返して、新たな品種を生み出す方法。 常陸秋そばの場合、葉が大きく茎も太いので味がしっかりしていて、粒のサイズも大きい。 しかも、1株当たりの花の数も多くて、結実率も高いんです。  茨城県では、種子の更新も奨励されています。 農業試験場で育てた常陸秋そばの原原種から原種を取り、さらに百軒ほどの農家で種子にして、毎年、一般農家はその種子を買って栽培をする。交雑によって品種の特性が薄れる心配がないわけです。  茨城産の中でも、有名な産地といえば金砂郷でしょう。 この地の蕎麦を全国区にしたのは、高橋さんと私。茨城県内でもどこの蕎麦がいいのかを二人で調べたところ、県全体の種蕎麦を栽培しているのが金砂郷の農家だとわかり、一軒一軒回って、玄蕎麦を買い歩いたんです。  金砂郷の蕎麦は、今では貴重な手刈り・天日干しです。 ただ、水分量はまちまちで、土や石などの混入も多かった。 そこで、毎年、千円ずつ高く買うようにして、代わりに水分を15〜16%に調整してもらい、できるだけ土や石を除いてほしいと頼みました。 二人で農家の意識改革をしたわけです。  そうして金砂郷の名が広く知れ渡ると、買いに来る蕎麦屋が増えて、値段はどんどん上がっていった。一時は1俵(45kg)3万円にもなりました。 でも、金砂郷で採れる玄蕎麦の量は限られているし、不作の時のことを考えたら、いろいろな産地で買ったほうがいいと思いますね。 実際、うちでも、県西の古河や新治などの玄蕎麦も仕入れていますから。

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