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たなか

2.環七に渋滞を起こした伝説の名店

闇屋、茹で麺屋、そして蕎麦屋へ

私は生まれも育ちも北陸・富山。 上京したのは、戦後間もない時代でした。 この頃はいわゆる闇屋で米を売っていたんですが、友達に誘われて配給のゆで麺屋を始めました。

うどん粉は米軍からの配給で、普通に作っていたら儲からない。 だから、八分ぐらい茹でたうどんをザルに入れたまま、そっと水につけるの。こうすると、うどんが膨らんで、元の量の3倍ぐらいになるんですよ。 つまり、3倍稼げるわけね。物の乏しい時代ですからね、そのぐらい逞しくないと生きていけなかったんですよ。

そのうち、ポツポツと蕎麦屋さんが出て来てね。私も店を仕切って、片側で茹で麺の玉を売って、反対側で蕎麦屋を始めた。 ところが、胸を患って続けられず、その後は運送屋やちり紙屋などで食べつないでいたんです。 もう一度、蕎麦屋をやろうかと思っていたある時、茹で麺屋をやっていた友達が「蕎麦屋を辞めるから、買ってくれないか」 って言ってきて。 そこを買って営業を開始したのが昭和33年。 これが、練馬にあった「明月庵田中屋」の始まりなんですよ。

環七時代の店内

環七時代の店内

店舗の拡張から高級店に

開店した当初は20席ぐらいの小さな店でしたが、昭和39年の環七の開通を機に、隣3軒分の敷地60坪を買い、建て増しをしました。 客席は2階まで含めると100席以上。 車社会になっていたから、駐車場も20台分と広く取りました。 この頃から高級店と言われることが多くなり、知り合いに、「駐車場にベンツなどの高級車ばかりがとまっていて、自分のボロ車は恥ずかしくて置けない」と言われたこともありましたね。 器もいいものを使っていましたよ。 マイセン、ジノリ、九谷焼の作家、須田菁華さん、そして、せいろは「藤八屋」の輪島塗。 1つ3万円ほどする品を300個ぐらいは揃えていましたね。

お客さんはもう、ひっきりなしです。 従業員もたくさんいて、一番、多い時には給料袋を37袋も出していましたから。 大晦日なんて、もうてんてこ舞い。 天ぷらと蕎麦をセットにして売ったところ、注文が殺到したんです。 忙しいし疲れているしで、この日ばかりはお金の計算をするのが嫌だった。 あまりにも大変だから、大晦日は1日3回信用金庫の人に来てもらって、お札をわしづかみにして袋に入れて、「これ、持ってって」と。 嘘みたいな話ですけれどね。

環七時代の店内

環七時代の店内

車海老の天ぷらが大ヒット

練馬で店を始めた頃、蕎麦といえば機械打ちが主流。手打ちを始めたのは、偶然なんですよ。 当時、釜の燃料が石炭からガス釜への変換期で、うちもガス釜を入れようってことで見学に行った店で手打ちをやっていた。 それを見て、「いずれは手打ちが流行るだろうな」 と直感して、番頭さんにその店に習いに行ってもらい、私は巴町砂場のご主人に指南を受けた。 打っていたのは二八蕎麦。 試しに機械打ちとともに手打ちを10円高くして出してみたら、お客さんはみんな手打ちを選ぶ。 だから、全部、切り替えたわけです。

もう一つ、練馬の店の名物だったのは、車海老の天ぷらですね。蕎麦屋の天だねというと芝海老を2本か3本、ダキで揚げるのが一般的で、それを車海老にしたのはおそらくうちが最初でしょう。 これがもう、売れに売れて。 店を拡張する前でしたが、売り上げは1席1万円。ひとテーブルでなく1席ですよ。 これには驚きました。

その天ぷらを揚げていたのが女房です。 トイレに行く暇もないぐらい、ひたすら揚げて。 天ぷらでは右で出る者はいないですよ。 他にも、缶詰の機械を入れて、缶つゆの販売もしたりね。 とにかく休む間もないほど忙しくて、女房が病気になってしまったんです。 娘や息子は別の道に進んでいましたから、跡を継ぐ者はいない。 それならいっそ店を閉じようと、手放すことにしたわけです。

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