江戸蕎麦手打處 あさだ
江戸時代から暖簾を掲げる、東京・浅草橋の老舗
「江戸蕎麦手打處 あさだ」は、江戸時代から暖簾を掲げる、東京・浅草橋の老舗。 11年前に八代目を継承した粕谷育功さんが、今も現役の先代とともに店を切り盛りしています。 老舗そば屋の息子に生まれた思い、そして、お店の立て直しに向けて敢行された大改革について伺ってみました。
1.創業150年余の老舗に生まれて
江戸のそば八傑に名を連ねた“街の名店”
私ども 「あさだ」 の創業は、安政元(1854)年。 今年で157年を迎えます。 江戸の街のそば屋八傑を載せた、“そば八将神”にも、蓮玉庵さんとともに名を連ねていました。 自分の家が歴史のあるそば屋であるということは、小さいうちからよく聞かされていました。 小学校ぐらいまでは、日本一おいしいそば屋だと思って疑わなかったんです(笑)。
それがどうやら違うらしいとわかり始めたのは、中学生ぐらいの時です。 浅草橋界隈では評判の店ではあったけれど、あくまでも“街のおいしいおそば屋さん”という程度。 老舗であっても、古くから続いているだけで、御三家のような知名度がないことにも気づきました。 もっとも、お店は繁盛していましたし、「おたくのそばはおいしいわね」 と言ってくださる方も多かった。 そばは機械打ちでしたが、今考えてみても、親父なりに当時では、できる限りの努力をしていたようです。 たとえば、製粉会社から買うそば粉は、国産の高級品。 しかも、甘皮を多めに加えたオリジナルの粉を特注していました。 つゆのだしに鰹の焼き節を使うのも、当時は珍しかったと思います。
メニューにしても、いわゆる街場のお店とは一線を画していました。 丼ものは親子丼と天丼だけ。 カツ丼やラーメンは出さず、出前も一切、受けていませんでした。 そんな両親の仕事を誇りに思う半面、もっとすごいお店があることも感じた私は、自分の力で「あさだ」を盛り返したいと考えるようになりました。
古いお店こそチャンレジャーの精神で
跡を継ぐのは決めていましたが、当時 「手打ちそば」 の人気が出てきていてそれに影響されたことも事実です。 そばを手打ちで出す、“こだわりのお店”が注目されて、同じそば屋として 「負けていられない」 という思いが私の中で強くなったんです。
高校生の頃から、栃木県足利の 「一茶庵」、山梨県長坂にある 「翁」 など、当時、話題だったお店に親父と足を運び、「うちももっといいものをつくりたいね」 という話をよくしていました。 でも、本来、古い蕎麦屋さんこそ革新的であるべきではないのかなとも思いました。 常にチャレンジャーの精神でなくては・・と。 だって、そばに関しては、一番、ノウハウを持っているわけじゃないですか。 それを生かして、新しいことに挑戦していけるのですから・・
時期的にも、世相的にも再建しがいのある、ちょうどいい傾き具合だったので(笑)、私のファイティング・スピリットに火がついたのです。 継ぐ価値がないほど傾いていたら、おそらく違う仕事を選んでいたかもしれません。
名門ラグビー部から与えられたもの
店を継ぐことは決めていたものの、料理の勉強を始めたのは大学を卒業後と遅いスタートとなりました。 というのも、私にはもう一つ、情熱を傾けているものがあったのです。 それはラグビー。 高校の頃からラグビーを始め、大学に進学してからも、体育会のラグビー部に所属していました。 所属したラグビー部は、日本で最初に立ち上げられた、伝統のあるラグビーチームです。 当時の部員数は100名ほど。 私はそのマネージャーとして、部費やOB会からの賛助金などのやりくりをしたり、合宿所の運営にあたっていたのです。
食の世界は、スタートが早いほどいいとよく言われます。 感性が豊かな時期に基礎を叩き込まれたほうが、料理人としては有利なのは確かです。 ただし、私の場合、大学のラグビー部にいたことは、決して無駄ではなかった。 店で働く人たちに細かく目を配れるのも、マネージャーとしての経験が役立っていると思います。 そして何よりも、OBの方々から素晴らしい人のご縁をいただいたのです。