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かんだ やぶそば

「伝統とは革新の連続」 老舗は伝統をいかに守り、いかに変えていくか

明治13年創業の 「かんだやぶそば」 は江戸蕎麦三大系統の一つ藪蕎麦で最も古い老舗。 大正年間に建てられた風格ある店構え。 帳場、小上がり、抑揚ある口調で注文を伝える帳場の声。 風情ある佇まいと雰囲気は江戸蕎麦の伝統を今に伝える。 四代目の堀田康彦さんにお話を伺った。

神田やぶそば

かんだ やぶそば (クリックで拡大)

1.「かんだやぶそば」の歴史

幕末の団子坂「蔦屋」が源流

藪蕎麦という屋号は江戸時代からあったものです。正確なところはつまびらかではないのですが、各所に藪を名乗る店が出始めたのが江戸時代中期以降といわれています。うちは幕末の頃に団子坂にあった「蔦屋」という店が源流です。「蔦屋』は元武家屋敷で、何千坪という広大な敷地に庭園があり、客は風呂に入って汗を流してから浴衣がけで酒を飲んで、ゆっくり蕎麦を手繰る。今でいう料亭のような店で大繁盛したそうです。竹やぶがあったことから「藪で蕎麦を食おう」と店の代名詞になり、後に屋号も改称して藪蕎麦になりました。

せいろそば 天たね

門からお店への通路

砂場から藪へ 初代のミステリー

私共の初代・堀田七兵衛がその藪蕎麦の神田連雀町支店を譲り受けて営業を始めたのが明治13年。 初代はそれ以前、四代目大阪屋を名乗り蔵前で砂場を経営していました。 墓にも砂場と同じ家紋が彫り込んであります。 四代目ですのでざっと見積もっても、その時点で砂場として約百年の歴史があったと考えられます。 しかし、初代が砂場から藪に乗り換えた理由というのが今となってはわからない。 我々にとってもミステリーです。 僕が考えるには店の造りが関連しているのではないか。 明治維新から13年。 時代が落ち着いてきて、普通の町人衆、職人衆が腹ふさぎに入るような店ではなく、団子坂 「蔦屋」 のような店にしたかったのだと思います。 時代の変化に合わせた路線変更ですね。 当時の店は関東大震災で倒れて残っていないのですが、畳の間に椅子とテーブルを置いて洋風の対応をしたモダンな店だった。 「蔦屋」 と同じように、非日常の空間でゆっくりと蕎麦を楽しむことができる人たちを対象にした、贅沢な店を目指したのではないでしょうか。

創意工夫の初代 波乱万丈の三代目

初代は曽祖父に当たります。 創業者のエネルギーたるや物凄いもので、蕎麦屋という商売に並外れた情熱を持っていたと聞いています。 子供用の食器を開発したり、洋風のしつらえの部屋を造ったり、アイデアマンでした。組合の初代理事長も務めるなど、業界の組織化の一端も担いました。 二代目の祖父は初代が作り上げたものを守るのに汲々として、路線を引き継ぐ役割を果たした。 三代目の父が一番波乱万丈の人生でしたね。 大正モダンの時代に青春時代を過ごして、関東大震災で店が倒壊しても、その年のうちに再建したくらい経営が順調だったので、若き頃は社交ダンスのチャンピオン、登山、スキーと多彩な趣味を楽しんでいました。 戦時中は近衛兵でポツダム中尉。復員後は母と二人で店を再開、復活させました。

四代目 堀田康彦さん

四代目 堀田康彦さん

「伝統とは革新の連続である」

蕎麦屋の業界は技術と組織があったので配給物資が早期に導入され、戦後いち早く復活しました。 そのため蕎麦屋では今も飯屋としての役割が主になっています。 昼間からゆっくり飲めるなど、蕎麦屋ならではの意義やあり方を改めて考え直すのも一つの方法ではないでしょうか。 父は好奇心、革新性があり、創意工夫は初代と相通ずるところがある。 自分が楽しまないと人を楽しませることはできない。 何事も面白がってやるという主義。 東都のれん会に加盟して歴史ある老舗との交流から 「伝統とは革新の連続である」 という考えに確信を持つにいたりました。 四代目の僕は大学を卒業して、京都の晦庵河道屋に2年間見習いとして行ってきました。 京都を選んだのは父の指示。 できるだけ東京と離れた地で異質な空気に触れて来いということでしょう。 帰ってから一緒に仕事をして、跡を継いだのは37歳のときです。

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